仏教哲学からの学び
最近、仏教の本をいろいろ読んでいます。宗教というよりは哲学として関心があります。読んだ本は、「教養として学んでおきたい仏教」(島田裕己)、「ブッダが教える愉快な生き方」(藤田一照)、「これも修行のうち」(草薙龍瞬)。いずれも宗派や礼式の話というよりも、釈迦の教えをベースとした「日常的な考え方の気づき」につながる良書です。ちなみに釈迦は固有名詞(=ゴータマ・シッダールタ)で、仏陀(ブッダ)は普通名詞(=悟りを開いた人)だそうです。今回は、3冊の中から「これも修行のうち」を取り上げます。
イヤなこと、ツラいことも、なんとかなる→何事も方法はある。人間の感情は喜怒哀楽などいろいろ複雑だが、心の反応を大きく分けると、快か不快の二つ。快を求めるのがいいとは限らない。心はニュートラルが基本。快と不快の反復横跳びはきつい。快はオマケと考えて、不快を上手に解消しよう。そのために、過剰に反応しないよう心がけよう。まず感覚に意識を向ける→五感、呼吸、歩く・・・など。そして目の前の作業に集中しよう。まだ起きてないことは「妄想」だと考えよう。だから大丈夫、なんとかなる。今を生きよう。・・・以上が内容です。
日々忙しいビジネスパーソンにはピンとこない部分もあるかもしれません。「理想はそうだけど、そんな枯れた考えはできないよ」、「快を求める欲求がエネルギーなんだよ」・・・等。かくいう私も、「起きていないことは妄想だなんて言ったら、リスクマネジメントなんてできないよ」と思います。しかし、ここで言いたいのは論理的な課題解決方法ではありません。物事の受け止め方、気持ちの「構え」のようなもの。基本メッセージは「過剰に反応しないようにしよう」ということかと思います。それが本のタイトルにもなっている。「これも修
行のうち」。ツラいことがあってもそう思ってみよう。なんとかなる、ということです。
こう考えると、自分自身も楽だし、周りからも器が大きく見える。他人の一挙手一投足にピリピリ過剰反応してると、「ちっちゃいなあ」と思われます。しかし、「自分を偽って、演じて大きく見せる」と、より一層苦しくなります。結局、自分をあるがままに受け入れ、心はニュートラルでいたい。そんな文脈を読み取りました。
共同生活している二匹の猫を見ていると、「確かに根源は快と不快なんだなあ」と思います。過剰に反応して引きずらず、ニュートラルに過ごしたいものです。猫は1日16時間も寝て、泰然としていていい。たまに仏教哲学に触れてみてはいかがでしょう。ヒントをいただけそうですよ。